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140810北海道ハイテクノロジー専門学校救急救命士学科「卒業生たちの10年」(9)出会い

氏名:根笹 里菜(ねざさ りな)
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出身:神奈川県横須賀市
出身学校:北海道ハイテクノロジー専門学校 救急救命士学科 第10期卒業
経歴:三浦市消防本部
(平成16年拝命−平成23年3月退職)
   聖マリアンナ医科大学看護専門学校
(平成23年4月入学)
趣味:映画鑑賞、旅行、ダイビング(お休み中)


シリーズ構成


浦辺隆啓
うらべたかひろ
urabe.jpg
日産クリエイティブサービス
陸別PG・車両管理課 レスキュー隊救急救命士


北海道ハイテクノロジー専門学校
救急救命士学科
「卒業生たちの10年」

サブタイトル 〜出会い〜

1、自己紹介
氏名:根笹 里菜(ねざさ りな)
nezaki.png
出身:神奈川県横須賀市
出身学校:北海道ハイテクノロジー専門学校 救急救命士学科 第10期卒業
経歴:三浦市消防本部
(平成16年拝命−平成23年3月退職)
   聖マリアンナ医科大学看護専門学校
(平成23年4月入学)
趣味:映画鑑賞、旅行、ダイビング(お休み中)


2、なぜ、救命士を目指し民間の養成学校を選んだのか?

 私は幼いころから医療系のテレビドラマが好きで、漠然と医療に携わる仕事に就きたいと考えていました。高校2年生の頃、進路を決めるために医療従事者についてさまざまな職種を調べているとき、母の知り合いに救急救命士の方がおり仕事内容を知ったこと、祖母が救急車で運ばれたことが重なりました。人がやらないことに興味を持つ私は、当時まだ救急救命士という存在が世の中にあまり知られていないことで興味を持ち、医療の最前線で活躍する救急救命士を目指しました。しかし、高校の教員からは「おまえには無理!」とはっきり言われたことを覚えています。

その時は、救急救命士という資格しか見ておらず、消防へ入らなければ資格を活かせないとは思っていませんでした。どうしても救急救命士になりたいという思いから、受験日の一番早かった北海道にある民間の養成学校を受験しました。今考えると、何かを自分で決め、積極的に行動するようなタイプではなかった私が、親元を離れ知り合いが一人もいない北海道での3年間の生活に対して、抵抗感なく受験や入学を決断したことは、救急救命士という目指すものと出会い、なりたいという強い思いがあったからだと思います。そして今、大切な宝物となっている3年間共に支えあった仲間と出会うことができました(写真1 3年間共に支えあった仲間)。


3、消防職員になって感じた理想と現実のギュップと克服方法

 救急救命士として救急隊になることしか考えていなかった私にとって、初任教育での訓練から始まった消防人生は理想と大きく違った世界でした。もちろん周りは筋肉隆々の男性ばかり、数人の女性も体育会系女子でした。毎日繰り返される厳しい訓練、疲労と睡魔に襲われながらの講義、消防に入ったからには基礎となる必要な知識や技術ですが、救急にしか興味のなかった私にとって、何でこんなに辛い思いをしなければならないのかと思う時もありました。机の中には、救急救命士標準テキストを入れていましたが、朝から頭と身体を使い切る毎日で救急の勉強ができる時間もなく、今まで学んできた救急救命士としての知識や技術が薄れていく恐怖を感じながら、卒業まで一回もテキストを開くことはありませんでした。毎日のように何十キロという装備で走り、汗だく、泥だらけになってグシャグシャの私の支えはとなっていたのは、初任教育を終えなければ所属に戻って救急隊にはれないという思いと、同じように厳しい訓練に耐えている仲間の存在でした(写真2 初任教育の仲間たち)。

長かったようで短かった7ヶ月間の初任教育を終え、すぐに救急救命士就業前研修を行い、最短で救急救命士として救急隊になることができました。救急服を着て、右腕に救急救命士のワッペンを付けたとき、自分は救急救命士になったと本当にうれしかったことを覚えています。初めての救急出動の場景は今でもはっきりと覚えています。しかし、そこには救急救命士として活動する以前にどう行動していいのか、傷病者にどのように接するのか、隊員としての役割もできずにただその場に居ることしかできない自分の姿がありました。救急救命士という資格を持っているだけで何もできないことに気付かされ、救急救命士のワッペンを付けている重みを感じながら救急車に乗ることが恐ろしく、出動指令にビクビクしていた時もありました。また、さまざまな事例に出動する度に自分の知識が浅いことを痛感しました。経験を積み重ねていくためにも、隊長や先輩の行動や声かけを盗み学んでいく日々でした。それと同時に、症例検討会や勉強会、講習会などにも積極的に参加し、救急に関する多くのことを吸収しようとしました。私が一人前の救急救命士として救急活動が行えていたのか自分ではわかりません。しかし、多くのことを吸収しようと行動したことで、他の所属の救急隊長クラスの方や医師、看護師など多くの方と出会い、学ばせて頂いた多くのことを現場で活かせたのではないかと思います(写真3 救急隊としての訓練)


4、第1号の女性消防吏員としての経験

私は三浦市の女性消防吏員の第1号として採用されました。学生の時に何気なく「女性のいないところに入りたい」と言ったことがありますが、まさか現実になるとは思いもしませんでした。男女平等と言われているこの世の中でも、“消防=男性社会”と覚悟はしていましたし、採用試験の時にも女性職員がいないことは伝えられており、承知のうえで飛び込んだ世界でした。自分なりに覚悟を決めて消防の世界に入り、「男と同じように扱う」と当時の当直係長が言ってくれた一言で、同期の男性職員と同じように経験を積んで、先輩達が通ってきた道を歩みたいと思っていました。しかし、「女だから」という言葉はいつも私に付きまとい、壁としていくつもの試練を与えました。今は笑い話として思い出の一つとなっていますが、当時は辛く思えたことがいくつもありました。

今まで女性という存在がいなかった職場に女性が入ってきたらどうなると思いますか?しかも、仕事とはいえ24時間生活を共にする場に・・・。私の場合、最初居場所がないと感じていました。夕食後など当直員がリラックスして盛り上がった話をしていることがありますが、その部屋に入っていくとどうなると思いますか?今まで笑って話をしていたのにパッと話が終わりパラパラと部屋から一人、また一人と出て行くのです。きっと誰も悪気があったわけではないでしょう。しかし、部屋に入る前、話しかける前、どれだけの勇気がいたと思いますか?その時の光景と悲しさ、虚しさは今でもはっきりと覚えています。また、「大丈夫か?」と聞かれることが多いです。もちろん、優しさだと受け止め、ありがたいことだったのかもしれません。しかし、その時に周囲からはどのようにみられているのか、いつも気にしていました。今思えば、打ち解けるために自ら自虐的な話をしたり、キツイのに大丈夫と言って意地を張り過ぎていたのだと思います。

7年間という私の消防人生のほとんどは救急隊としての活動でした。もちろん、救急隊になるために消防へ入ったとも言えるため、満足はしています。救急救命士を持っていても、救急隊になりたくても、なれない人を何人も知っているからこそ、恵まれた消防人生だったと思います。そして、女性だからこそずっと救急隊でいられたのも事実だと思います。言葉や気持ちでは「女だから」という言葉に反発していましたが、実際には消防隊にもなれない、女性の施設がないため分署に補充要員としてもいけない自分の存在に気付いていました。昇任試験も機関員試験も決められた年数で受け、消防職員として階段を上り、救急隊員から機関員となり、後輩とも一緒の現場で活動することができるようになりました。消防隊として経験のない私がようやく先輩として存在を許されたような気がしました。

少しでも男性の消防職員と同じようにと思いながらも、女性といての存在価値を救急現場で見つけ、積極的に自分のできることを増やし、救急以外の新しいことにもチャレンジしていきました。そういった行動を理解してくれる上司や先輩、後輩に恵まれ、短い消防人生ではありましたが、女性職員の第一号として道なき道を歩みながら、男性職員とともに活動できる女性の居場所を残せたのではないかと思います(写真4 女性職員第一号として活躍)。


5、なぜ、消防を辞めて看護師を目指したのか?

決して嫌で辞めたわけではありません。もし看護学校に合格していなければ、消防人生を続けていたことは間違いありません。

“社会人になって3年”などと、いろいろ考える節目の時期が来るとよく言われていますよね。私も7年目で大きな節目が来ただけなのです。

消防人生のほとんどを救急隊として活動してきました。その途中で機関員となり、通信指令業務や庶務課の兼務などもしてきました。いずれは救急隊長に・・・とも思っていました。しかし、ふと救急救命士である自分の存在が薄れていることに気付きました。救急救命士である後輩が増え、機関員として活動することがほとんどとなり、機関員となった後輩が救急科を修了すると通信指令業務の日が増えていきました。また、認定を持つ救急救命士が増える一方で、自分はいつ認定を取ることができるのかという焦りと、どうすることもできない悔しさがありました。そんな時、いつも救急隊として接する機会が多い看護師の存在に惹かれる部分を思い出しました。それは、傷病者を搬送し、看護師が一声掛けた時に見せる傷病者の安心する瞬間と、何より一番患者に近い存在でいることができるということでした。このまま消防にいても一生救急に関われる保証はない。なら自分の努力次第でステップアップができ、一生医療現場に関わることができる看護師を目指そうと思ったのがきっかけでした。

その時28歳、年齢的にも再び学生に戻る不安も正直ありました。「公務員を辞めるだなんて」と周りにも言われました。だから一回きりのチャンスだと割り切って、合格したら看護師としての第二の人生を、不合格ならこのまま定年まで消防人生を歩もうと決めて看護学校を受験しました。

看護学校に合格し、私を受け入れてくれた消防を辞めることに対しては申し訳ない思いもありました。しかし、消防を辞め、看護の道に進んだことに対して後悔はないと今はっきりと言えます。そして、認定看護師やフライトナースという新たな目標もできました。

6、全国の消防職員に伝えたいこと

 まずは、「ストレスは溜まっていませんか?疲れていませんか?」特殊な仕事だからこそ、自分の身体も心も大切にしてほしいと思います。
今回、元女性消防職員として書かせて頂きました。すべての女性職員が私のような思いを抱きながら仕事をしているとは限りませんが、少しでも共感して頂ける部分があったらうれしく思います。また、女性職員と一緒に仕事をする男性職員の方に、女性がどのような立場でいるのか、思いを抱いているのかを少しでも分かって頂けたらと思います。そして、より女性職員が女性としての良い部分を出して活動ができるようにサポートして頂けたらありがたいと思います。

私は4月から救急車を受ける側となります。まだまだ消防と医療機関には壁があると感じています。しかし、傷病者(患者)のために必死にできる限りのことをする思いは消防職員も病院スタッフも違いや差はありません。私は傷病者を搬送する救急隊の思いや、現場、病院に到着するまでの苦労は身に沁みるほど知るっています。また、傷病者(患者)や家族がどのような状況でいたのかも想像することができます。少しずつになるとは思いますが、私のできることをして、救急隊にとって理解のある病院スタッフを増やしていきたいと思います。

7、結び

 このような機会を与えて頂き、自分の10年を振り返ることができました。卒業して10年、再び学生をしている今の人生は想像していなかったと思います。人生何があるか分からないから面白いですよね。さらに10年後はどんな人生を歩んでいるのでしょうか。どんな人と出会い、どんな経験を積み重ねているのか楽しみです(写真5 10年後はどんな人生を歩んでいるのでしょうか)。

 救急救命士という同じ目標を持って支えあった仲間との出会いが、今の私の原点となり、多くの出会いに結びついています。これから先も出会いを大切にしていきたいと思います。


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14.8.10/9:12 AM